どうも首に、鉛が乗っかっているようだ。
あの後、無事に家へ帰って、晩御飯を食べて、風呂に入って、――今は二階にある自分の部屋のベッドで寝っ転がっている。
何だか勉強する気も失せてしまった、このまま寝てしまおう。
別に熱があるというわけでもないようで、不思議な気怠さが全身を覆っていた。
さらに言えば、それに抗おうとする気持ちも湧いてこない。
一体全体どうしたものか、やる気というものが全て削がれてしまった気分。
何度か体勢を変えて変えてを繰り返したが、何の解決もされなかった。
少しずつ自分に対して腹が立ってきて、思いっきり反動を付けて起き上がってみる。
(あぁ――…何かモヤモヤするな)
しかしすぐに、また枕へ顔をダイブさせてしまった。
血が一気に頭から駆け下りるような感覚、貧血になりそうだ。
何ともまぁどうしようもない光景、自嘲気味の笑いが浮かんですぐに消える。
胸の中を黒い靄がグルグルと渦巻いているようで、気持ち悪くはないが気持ち良くもない。
吐き気が起こらない分だけマシか、とりあえず寝ることを再度試みてみた。
(……もう、何だよ。あの蛍光色。鬱陶しい)
けれどそうすればすればで、真っ黒の視界に現れるセンス零の看板。
血文字のように書かれていた万事屋という文字が、何度も脳内を巡る。
眉間に皺を寄せて、顔全体も顰めている自分が容易に予想出来た。
あんなに眺めるものではなかった、記憶に焼き付いて薄れてくれない。
逆にどんどん鮮明になっていって、眠りを妨げるには充分。
悲しくなってきた、ある意味で自業自得なのだが。
(くそっ…どうして私がこんなに悩まなきゃならない)
グリグリと顔を枕に押しつけて泣きたくなる、もしかすればこの妙な気分もあの看板のせいだろうか。
そうならば、私はこれから何度も見かけなければならなくなるのにどうしろという。
店側が早急に撤去してくれることを祈らなければ。
毎朝毎夕、朝陽か夕陽を浴びて輝くあんな画など見たくもない。
あぁでも、一回くらい写真に撮っておく価値はあるだろうか。
何てことを思ってしまう自分に、勘弁してくれ…と少し笑いながら長い長い溜息を吐いた。
――――――――瞬、間。
流氷の中に、落下した。
「!?…えっ、あ?」
そんなわけが、ない。
だがそう思うような感覚に襲われたのは、確か。
寒気と言うのか悪寒と言うのかなど、もうどうでもいい。鳥肌が全身を駆け巡る。
ついでに吐く息すら白く目に映り始めた、この時期にこの現象は有り得ないはず。
ふとまだ生乾きの髪の毛を手で触ってみた、付着している水分が凍り始めている。
さらに足先がやられてしまった、指に血が行き届いていないよう。
両肩を抱えるように体育座りをし、部屋を懸命に見回した。
けれどこの冷気の原因が一体どこにあるのか、一切分かることはなく。
逆に混乱のハリケーンに自ら巻き込まれに行くようなもの。
「なに、ぇ、何……ッ!?」
このままここに私だけがいても、しょうがない。
階下にいる母親に助けを求めるべきだと判断し、急いでドアノブに手を掛けた。
すぐに回って飛び出して、階段を下りる自分の姿が浮かぶ。
しかしすでに、ノブすら凍ってしまっていた。その想像は一気に砕け散る。
一体、氷点下何度の世界になっているのだろう。このままでは私が凍死してしまう。
「嘘、何で、何でだ、一体、誰、何」
雪山で遭難したような恐怖が一気に襲いかかってきた。
無意識に零れ始めている涙も、すぐに凍ってしまう。
扉をガタガタと動かそうにも無駄だったので、次に部屋の【窓】へと目的を変更。
鍵が凍っていようが関係ない、ガラスを割ってしまえば良いだけだ。
さすがにそれくらいのことは出来るだろう……という展望すら、甘かった。
すでに厚さが尋常ではない氷で、覆われている。
「―――――ッ!!」
心臓が、飛び跳ねる。
声も出ない、がむしゃらに拳をそれに叩きつけた。次に椅子を振り上げて殴った。
それでもヒビ一つ入るわけもなく、氷は消えるわけもない。
パニック状態に陥って、喚きながら部屋にあるもの手当たりしだい窓へ投げつける。
瞬きなどしている暇もなく、ただ窓だけしか見えていなかった。
刻一刻と体は温度を奪われていき、徐々に頭も回らなくなってきている。
血液が凍っていくようだった、そうなっているなら死んでいるのだけれど。
それが、シャレにならない状況でもある。
「助けて、助けて、助けて助けて助けて助けてたすけてたすけてタスケテェエッ!!」
お願いだから、誰かに届いてくれ。誰でも良い、少しでも届いてくれればそれで良い。
激突音が合唱している、皮肉にもそれは私にしか届かないようだ。
髪の毛なんてとっくに凍結。その魔の手が体へ伸びるのも時間の問題だった。
さらに言えば、時間なんてもうほとんどない。
筋肉の動きが停止してきた、四肢が凍傷になっているかなど分からない。
物を投げることすら出来なくなってきた、膝を折って窓の前に崩れ落ちる。
震えが止まらず、涙ももう出て来ない。
関節が、働かない。
「何…で、どし―て」
私が、こんな目に遭わなければならない。
訳の分からない超常現象に、どうして襲われなければならない。
何もしていないじゃないか、私は何もしてない。
こんな罰みたいな仕打ちを受けなければならないようなことは、何もしてないじゃないか。
それとも気付かない内に、私は何かをしてしまったのか。
それならば教えてくれ、全身全霊で謝るから。
だから、―だからこんな所に私を置かないでくれ。
―死にたい、だろう?―
ふと、頭に直接響いた声。
目を開けていることすらままならなくなっている私は、その問いに答えることは出来ない。
熱を貪られて奪われて、思考だってまともに回ってはいない。
そんな時に聞こえた声は、少し温かさを伴っている気がした。
―死ねばこんな空間ともおさらばだ、楽になるぞ?―
一方的に語りかけられても、仕方ないのだが。
随分と悲観的な発言であったが、そう思うのは【普通の状況にいる私】。
【今ここにいる私】にとってはそれは―――まるで、【救い】。
それ以外の、何モノでもない。
―もし死にたいと言うのなら、その願いを叶えてやる―
上から目線の言葉。けれど怒りなど一切湧き上がることもなく。
焦点の合わなくなっている瞳は宙を泳ぐだけで、その声の主が見えることはない。
けれどその言葉通りに私が実行したのなら、この状況から解放されるのだろうか。
この、寒さと苦しみから。
冷と暖のどちらを選ぶかと言われれば、決まっている。
─さぁ、言え─
相手が、笑った気がした。
それに気が付くよりも前に、石になっていたはずの口が、本来の役割を果たす。
渾身の力で微かに唇を下させれば、容易く零れ落ちてくれる。
出なくなっていたはずの、涙がそれと一緒に頬を伝って落ちた。
「死、にった―――」
後、一文字。
それを言えば一歩を踏み出せる。それを言えば、願いが叶う。
邪魔する存在などここにはいない、何せ私の声は届いていないはずだったから。
「根性ねぇなぁおい、たったこれだけのことで命捨てんのかよ」
―――――絶対に、届いていないはずだったのに。
見下しに見下しを重ねた、見下しの声。
間にズカズカ割って入ってきて、あっさりと私の口を塞ぐ。
というよりも、思いっきり顔面を蹴り上げられたため、閉じざるをえなくなっただけなのだが。
その勢いで後頭部を自分の机に激突させてしまった。
それのせいでダムが決壊したのか、体中を封じ込められていた熱が全力疾走して、一気に身体機能が戻り始めた。
だが悲鳴も出せない、顔が痛すぎる。鼻が折れたように感じたが、実際はそんなこともなく。
両手で顔面を押さえて必死に耐えた、けれど状況を確認するために両眼だけ何とか指の間から覗かせる。
「死にたけりゃ勝手に死ねばいいが、俺の目の前で絶対ぇ死ぬんじゃねぇぞ。気分悪ぃだろうが」
その先には鮮やかな銀色の世界が広がっていて、その中心では存在を誇示するかのように――【緑】が、輝いている。
浴びせられた、ある意味で罵倒と取れる言葉の雨。けれどどうしてか―――――
それこそが、本当の救いだと、確信する私がいる。
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